やりたいこととできること_返歌①

やりたいこととできることについての覚え書きです。



 僕は読書猿さんの書く言葉がとても好きです。
 初めて彼のブログに出会ったのは2018年でした。友人が紹介してくれたエントリーを一つ読んで、二つ読んで。すげえひとが居るんだな、と思いました。それから、全エントリー制覇したり、彼が運営しているほかのウェブサイトを訪れてみたり、著作を読んでみたり、マシュマロとその返答を書き写したりして、彼の言葉を追いかけてきました。
 つい先日のマシュマロの回答も、よいなあと思って書き写しました。

やりたいことがそもそもない

 たぶん質問者さんとは違う理由なのでしょうが、僕も「やりたいこと」がない人間でした。
 そもそもいままで、「やりたいこと」について問われてきませんでした。親もそういうことは言いませんでした。金銭的な余裕がない家庭に育ったためだと思います。「やりたいこと」——たとえば習い事や、旅行、高価なものを食べたり——そういうものは、僕の世界では、却下される可能性しかない選択肢でした。「やりたいこと」を出すことを強要されるような世界にもいませんでした。その問いを周囲の人たちが発することはありませんでした。願いを叶えてやれる余裕はありませんでしたから。
 経験がないから、なにかに興味をわかせることもありません。大学で学びたいことも特にありませんでした。学歴を得るために、親しい友人が進学することを決めた大学を選び、奨学金を得てそこで学士を取って、特に困ることもなく卒業しただけでした。

やりたいことがないことの弊害(は幸いにしてなかった)

 自分で自分の生活を立てるようになったころ、僕はほとんど初めての「やりたいことは何だ?」という問いに遭遇しました。
 それは仕事の場でした。面談の場で「お前はどんなキャリアを目指しているんだ?」という問いが渡されたのです。前に座る人事部のお兄さんが目線をこちらに向け、眉を少し上げて、答えを求めるしぐさをしました。
 僕は素直に、困惑しました。

そんなものはない。

 とりあえず、流されるままに生きてきた僕には、キャリアなどという高尚な言葉もほぼ面識がありません。まずキャリアってなんだ? どんなキャリアがあるんだ? あんたは、会社は、俺にどうしてほしいんだ? 逆に問いたい気持ちがわきます。まあ、こんな場で、そんな応えができるわけもありません。でもここで狼狽えたりどもったりすれば、僕がキャリアについて考えたことがないことがばれてしまいます。そんな”意識の低い”社員は首にされてしまうかもしれない、という危機感が背筋を伝います(まあそんな簡単に人を解雇できないのですが)。
 そして僕は、この凡庸な脳で、ちょっと残念な答えをたたき出し、答えたのでした。

「何でもできるようになりたいです」

 逆に何も知らないことを露呈した表現でした。人事部のお兄さんも、そのフィードバックを受けた上司も、僕が何も考えていないことには気づいていたでしょう。
 それでも(あるいはそれを逆手に)会社は僕に「何でもやらせる」ようになりました。最初は、別の人がやっていた業務の引き継ぎを。それから、種々のデータ出し、業務状況の分析、新規企画の意見出し。会社からすれば、選り好みなく何でもやってくれる歯車として有用だったでしょうし、僕は、自分のやりたい/やりたくないにかかわらず「できること」が増えていくことになりました。

できることが増えてようやく

 できることが増えると、それを提供した相手から喜ばれたりします。こちらは仕事でやっているだけですが、それでも感謝されることはうれしいことでした。そうして仕事を提供していくうちに、おさない言い方をすれば「自己肯定感が上がって」いきました。
 僕の場合は、自己肯定の感覚が、「次はこれをやってみたい」という好奇心に繋がりました。今考えてみると、「お前はここでそういうことを考えても良いのだ」というゆるしにも取れていたようです。
 そして、基本的に「やってみたい」という希望からやってみて生まれるものは、誰かから強制されたものではなく(つまり仕事として必ず納品しなければならないものではないので)、おおむね苦しい思いもせず、楽しくやることができたのでした。

 業務でなんとなく「やってもいい」というゆるしを得たような気になって、自信のようなものを得た僕は、ふと、新しいこと、いままで触れてこなかったことに興味を出すようにもなりました。大層なことではないのですが、表計算ソフトの関数を少し調べて取り入れてみたり、レトリックについて学んで意図をもっとよく伝える方法を考えてみたり。……いま書いてみて気づいたのですが、それはひょっとすると、よりよく感謝されるための――自己顕示欲を満たすための――手段だったのかもしれません。
 さておき。そうして僕は、新しく知ったことを提供する業務に反映させて、うまくいったり、失敗したりしてきました。その経験は、別の新しい興味を呼び、新しい「やってみたいこと」を呼び寄せました。

いまやりたいこと

 どうやら、僕の「やりたいこと」は、新しく知ったことと、既に知っているものとをつなげることから生まれてくるようでした。
 馬鹿の一つ覚え? 新しく知ったことをどこでも使ってみたくなる? 幼稚な思考回路でしょう。でも、自分を楽しませるには十分です。
 あることを、別の、特に関係のないことに重ねてみる。思考実験してみる。そこからなにか変なものが生まれてこないだろうか……それを言葉で表すことができないだろうか。


 たとえば。
 文字起こしができる技術があるなら、交わされている音が――言葉が――何であるかというのを判別する方法があるのでしょう。それは音の波形でしょうか? 振動数でしょうか? なにかしらの情報を処理して数値に変えて、言葉を、判断しているのでしょう。
 ならば、短歌の31文字をモデリングすることができるんじゃないですか? 値に形や色を当てはめることで、歌にかたちを与えることが。短歌がどんなかたちをしているか、視覚で楽しむ方法になりうるのでは?

 たとえば。
 歴史のデータベースという面白い仕掛けがありますね。僕は「コテンラジオ」が好きで、彼らが為そうとしていることにとても興味があります。
 彼らが作ろうとしているデータベースというものを、ひとりの歌人でも作ってみたら、それを使うことで、どんなものが見えるでしょうか? つまり、歴史の事象にタグを付けて構造をメタ的に見ることを、ひとりの歌人が作った作品や残した手紙に重ねてみたら?

 たとえば。
 たとえば。


 どれもうまくいくかはわかりません。思ったことをうまく伝わる言葉にできているかもわかりません。また、僕より先にどこかで思いついている人はいるでしょう。実際に始まっている企画だってあるかもしれない。
 そもそもすべてができるわけでもない。僕がやらなきゃならない必然もない。

 ただ、いまは、面白そうなことを思い付いたら、言葉にしておこうとおもうのです。
 親切な人が、それはもう誰誰があそこでやってるよ、とか。面白がってくれる人が、そりゃ金になりそうだと、どこかで始めてくれるかもしれません。
 僕の人生は長くは続きませんが、こうして蒔いた――あるいは取りこぼした種が――だれかのところに届いて芽を吹いたり、それを啄んでなにかの栄養になったなら、それがもう十分面白いと思います。明日もわくわくすることを見つけられるような世界に、一歩近づけた気がするので。

 ま、大層なこと言ってますが、単に「面白いこと思いついた。えっもう誰かやってる?そっかあ」という程度。そんなに構えないで、気にしないで、適当に聞き流していいんです。
 ……でも、まあ、君にもこのワクワクを伝えられたらいいのだけど。


これ書くきっかけになった刺激

【ゆる言語学ラジオ】 #191 www.youtube.com
【コテンラジオ】 レヴィ=ストロース回(構造主義回) youtube.com