『死後』から考える 死生観②

 

ひとの生き死にについてのお話です。

序章記事
walking-reading.hatenablog.com

 

初回は、『死後』(正岡子規)の随筆から考えてみます。
www.aozora.gr.jp

青空文庫で全文読めます。
17分ほどで読了できるので、是非読んでください。

 

今回は、
読書記録をつけて、
正岡子規の考えにふれて、
僕自身に立ち返ってみる、
という流れで読んでみました。
 


 

 

【読書記録】(ネオ高等遊民様のテンプレートより)

 

(1)その本のタイトルは? 読んだ日付は?

┗『死後』 読了日:2020.03.17

 

(2)著者名と訳者名は? その人のプロフィールを教えてください

┗著者:正岡子規
 明治時代の作家・詩人。生:1867没:1902(享年34)
 白黒写真の、坊主頭の横顔の人。夏目漱石の友人。
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」のひと。『歌よみに与ふる書』のひと。
 死ぬ前7年間はずっと病床にいた。

 

(3)出版社名と発行年月日を教えてください

┗「子規全集 第一二巻」講談社 1975年10月
 ※もとは何に載った随筆か?→1901年に書かれたものらしいが、出典不明。多分全集に当たればわかる。

 

(4)所要時間(何日かかって、大体何時間くらい費やした?)

┗2週間。一周20分を何度か読んだ。

 

(5)本を読むことになったきっかけ(どこで知って、なぜ読んだ?)

┗ふと、正岡子規を一つも読んだことがなかったことに気付いたので、青空文庫の中から読了時間の少なく、かつ面白そうなタイトルである本作を読んだ。

 

(6)どこでその本を知ったのか?

青空文庫

 

(7)なぜその本を読むことになったのか決め手は?

┗読了時間の短さと、タイトルの魅力。

 

(8)本の目次とあらすじを書き写してください

┗(無いので我流に)
 長らく病床にいた正岡子規は、死について考え研究する時間が多かった。死には「主観的死」と「客観的死」があるとする子規が、それぞれに具体例を記しながら、「主観的死」の恐怖と「客観的死」の滑稽さについて述べた随筆。

 

(9)その本で「線引き」したところを引用してください

┗下記引用。ブラウザ版青空文庫のため、引用箇所の明記が出来ない。

死を感ずるには二様の感じ様がある。一は主観的の感じで、一は客観的の感じである。

死を主観的に感ずるというのは、自分が今死ぬる様に感じるので、甚だ恐ろしい感じである。動気が躍って精神が不安を感じて非常に煩悶するのである。これは病人が病気に故障がある毎によく起こすやつでこれ位不愉快なものは無い。

主観的の方は普通の人によく起こる感情であるが、客観的の方は其趣すら解せぬ人が多いのであろう。主観的の方は恐ろしい、苦しい、悲しい、瞬時も堪えられぬような厭な感じであるが、客観的の方はそれよりもよほど冷淡に自己の死という事を見るので、多少は悲しい果敢はかない感もあるが、或時は寧ろ滑稽に落ちて独りほほえむような事もある。

 

(10)その本は結局何を言ってるのか、簡単に教えてください

┗ 死を感じるのには2通りある。主観的死(この「わたし」がなくなる)と客観的死(わたしが死ぬことを外から見る)。客観的死について、自分の例、友人の例から述べる。


(11)あなたの感想と意見を自由に書いてください

┗下でまとめて。
 

(12)読んでて分からなかったこと・そのうち調べたいことはありますか?

┗3点。
(A)出典は?正岡子規が幾つの時に書いて、幾つの時に掲載されたもの?
(B)おがくずを棺に詰めるのはどこの風習?まだ残ってる?
(C)猿楽町にいたときに亡くなった友人は誰?
 

(13)この本を読んで、次に読みたい本はなんですか?

┗「主観的死」を述べたもの。学術書よりも随筆にありそうだけど、死んでからは書き残せないからなあ。あるかなぁ。『イワン・イリッチの死』はかなりそれに近いよなあ
 

(14)この本はどんな人におすすめ?

┗死ぬことについて夢想したことある人。正岡子規は棺に詰められる自分について悶々と嫌だ嫌だと文句を言うよ!かわいい。
 

 

『死後』から僕が読む、死のこと

 正岡子規は長く病の床にいた作家です。
 病状の進退で、強く死を感じるときや、死んだ後の夢想をすることも多くあったようで、この随筆『死後』はそれについて書かれています。

 子規は死の感じ方を2通りに規定しました。
 ひとつは、「主観的死」。いまここにある自分がぷつんと無くなるイメージです。これは非常に強い不安をもたらします。
 もうひとつは、「客観的死」。死ぬ自己を、外から見ている感じです。肉体の死を魂が眺める、自己の死をあたかも他人のように見ている、そういうものです。これは、恐怖心よりも儚さや滑稽さを引き起こします。

 子規は「主観的死」を「甚だ恐ろしい感じ」と表現したきり、それについてこの随筆中では述べませんでした。恐ろしくて、文字に残すことも難しかったのでしょう。
 そして、「客観的死」について語ります。『死後』では、それは己が死んだときにされる処理についてでした。子規は、遺体を処置する方法について語っています。
 棺の中で遺体が動かないように詰め物をする、土葬で土に埋まる前におが屑や樒の葉で埋められるのは気の毒だ……、
 棺の蓋を釘で閉じないでほしい、生き返ったら出られない……、
 棺の上に土を被せられてしまったらもう声も届かない……、
 頼むから石塔は建てないでくれ、出られない……、
 火葬の蒸し焼きは息苦しい……、
 土葬は遺体がが残るが火葬は骨だけになってしまって心許ない……、
 水葬は泳げないから嫌だ……、
 姥捨てみたいに山に捨てられたら身体弱いから風邪引いちゃう……、
 ミイラも風に吹かれたら崩れちゃう……、
 もう思いつかないから星になりたい……。
 子規は色々に語ります。
 彼がこのときに想像している「遺体の子規」は、矛盾していますが、死んではいません。今にも生き返ろうと、生きています。
 僕の想像ですが、子規は客観的死を、慰めのように使っていたのではないでしょうか。主観的死に囚われたあと、ふと客観的死にシフトした、と記述があります。客観的死は己を殺さなくても見ることが出来、それに浸ることで、主観的死の恐怖から脱していたのではないでしょうか。
 ちなみに、子規は「墓に石塔(墓石)を建てないでくれ」と遺言を残したそうですが、しっかり墓石が建っていました。墓は生きてそれに参るひとの為のものなのでしょう。
 

 ところで、僕も幾度か「主観的死」と「客観的死」を考えたことがあります。
 実はいまここで主観的死について書こうとしました。うまくいかず、電車の中でパニックを起こしそうになっています。頭の芯が冷たくなり、喉の締まる感じがします。大きな声を上げて生きていることを確認したい。いや流石にそれは不審者だ、という、死ぬこと以外のことを考えて、何とか落ち着きを取り戻しました。
 「主観的死」に取り組むのは、まだ早いようです。

 代わりに、「客観的死」について考えてみました。
 子規は「自分の死体の処理のされ方」について考えましたが、僕は「死んだ後に周りに掛ける迷惑とそのあと」について考えます。
 まずは死体の処理があります。なるべく汚くないのが望ましいです。長く病気をするとお金が掛かるのでピンピンコロリがいいですね。
 それから、葬儀。交友関係は広くないので密葬でかまいません。世間体を気にしない人なら、葬式も戒名も必要ありません。また、友人たちに訃報が届くときには僕はこの世にいませんから、それが遅くても早くても気にしません。ああ、いま住居を共にしているひとたちには、早めに知らせたいですね。家賃が半分出なくなりますから困るでしょうし。
 その次に、楽器のことを考えます。僕は大きな楽器を持っています。処分するのには少しお金が掛かるでしょう。出身の団体に押し付けるようすでに言付けてはありますが、うまく行かないかもしれない。そのときは、フリマアプリにでも出してもらいましょう。お手数をおかけして申し訳ないが。
 そして、身辺の整理がすんだ後に、僕が居なくなった世界を想像します。
 その世界は、「いつもどおり」でした。
 職場はほんの少し混乱しますが、ひと月ほどで元通りです。僕のやっていることは「誰かが出来ること」でしたから、誰かが少し無理をして穴を埋め、そしてその無理はそのうちに平たくなります。そうして半年もすれば元通りでしょう。僕という労働力が無くなったことで、効率良く進化するかもしれません。
 音楽の仲間たちは、ほんの少し困るかもしれません。僕の楽器は人数が少ないですから、また頭数を揃える必要に頭を悩ませるかも。でも、ないものはないのです。そして不在には慣れます。今いるメンバーでやれることをやることが音楽の一回性ですから。幸いにして僕はさほど重要な役割を持っていません。穴があいて、困ることはそうないでしょう。
 古くからの友人は、少しだけ悲しんでくれるかもしれません。そのときは、永遠の不在を感じてくれるかもしれません。時間が経つにつれて、そのひとにとっての僕は小さくなっていきます。ほかのご友人たちとの関係が更新されてそのひとの人生の時間を占めるにつれ、更新されない僕は次第に小さくなります。そのうちに、そのひとの中からきれいさっぱりなくなるか、いつか不意に思い出される存在になります。
 それでいいと、思います。
 そうして、僕がいないということが当たり前になります。「いつもどおり」の世界です。
 僕は、そこまで想像して、満足するのでした。
 自分が死んだ後のことを考えるのは、僕に安心を齎します。世は並べて事も無し。
 
 客観的死は、子規にとっても僕にとっても、恐いものではありませんでした。
 では、子規も立ち向かえず、僕も未だ相対することのできない、「主観的死」を、捉えることができたひとが居たでしょうか。

 次の回では、あるいはいつか未来に、その作品を探してみたいと思います。



参考サイト

kotoyumin.com
ネオ高等遊民氏による読書ノートの付け方です。
フォーマット化されているので使いやすく、また結構読んだ本が身体に残りますから、オススメです。