初恋 短歌食②
砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日
(すなやまのすなにはらばひ
はつこひの
いたみをとほくおもひいづるひ)
石川啄木『我を愛する歌』より
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知人の所属する合唱団で上を歌った音源を、知人経由で手に入れた。
合唱をやる人ならば、一度はソロを張りたいと思う曲らしい。
穏やかなメロディラインに、伸びやかに響くソリストの声。
コーラスのハミングのあとから現れる「はつこいの いたみをとおく とおく」からが見せ場だろう。
リリック・テノールと呼ばれた男性が歌う声に、僕は幾度となく耳を傾けている。
彼の歌声は、てらうところが全くない。
俺の歌を聴け!という力の込め方はしていない。だのに、どうしてこんなに届く声なのだろう。
僕は彼に会うことはなかった。ステージ上の彼の、生の歌声を聴くことができたら、どんなに幸せだっただろうと思う。
音源をくれた知人は、未だにこの音源を聴くことができないそうだ。思い出してしまうことが多すぎて。
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「初恋はいつだった?」
君がのんびりとした声で問うた。今僕たちが恋人同士であることをすっかり忘れてしまったような声だ。
僕は文字を書く手を止めた。顔を上げると、君がコーヒーマグを両手で包んで僕を見ている。瞳が面白がっていた。その細められた黒いまなこに僕が映っている。素直に答えてやるのは癪に障った。
「きみは?」
「質問で質問を返すか。わたしは中学生の時だったね」
「結構遅いんじゃないか? どんな恋だったのさ」
「ものがたりのような出会いだったよ」
僕は手元のノートを閉じて、君の話を聞く体勢をとった。満足げに、君は語り出す。
「当時絶賛反抗期だったわたしは、夜な夜な家を飛び出しては散歩に明け暮れていた」
「反抗期とは思えない長閑さだな」
「中学生はお金ないからね。終電も終わった時間、保護柵の切れ目から、わたしは線路に進入して、レールの上を歩いていた」
「よく捕まらなかったね。不法侵入だろう」
「その線路、途中から廃線になった路線に入れたんだよ。そっちはひとけもなかったし。そもそも、時代的に緩やかだったな、そういうところは」
「へえ。それで? 君は死体探しにでも出かけたのかい?」
「スタンドバイミーの世代じゃないさ。残念ながら死体は見つからなかった。代わりにわすれられないものを手に入れたよ」
その日は月が明るかった。
わたしは廃線をずんずん進み、その果てまで行ってやろうという気持ちだった。その一日は、いい日じゃなかったから、むしゃくしゃしてたんだと思う。
その線路がどこで終わってるか知らなかったから、太陽が昇るまでに、親に気付かれずに、家に帰れるかどうか分からなかったんだけど、そんなことは気にしないで、もうこの際、さいはてまで行ってみようかなって思ったんだ。
少し肌寒かった。道中で買った缶コーヒーを懐炉代わりに、お供はそれだけ。携帯電話もない時代、怖いもの知らずが歩いていく。
廃線に入って、三十分くらい歩いた頃だ。
向かう道の先から物音がした。
それまでわたしの、砂利を踏みしめる音しかなかった夜に、わたしの足とは違う動きをする音が生まれたんだ。
とってもびっくりした。わたしは立ち止まった。心拍数が一気に上がるのを感じた。
不法侵入がバレたんだと思った。向こうから、誰かが私を捕まえにきたと思ったんだ。ついてない日だった。わたしは家族に黙って家を出てきていた。身分を表せるものもなにも持っていなかった。逃げる道もなく、隠れる場所もない。守ってくれるものはなにもない。すごく怖い思いをした。
でも、その音の持ち主の姿が見えたとき、さっきの思いは吹っ飛んだ。
女の子だった。
雑草の生い茂る線路の先から、こちらを見てこちらに向かってくるのは、わたしより少し年上の女の子だったんだ。
近くの高校の制服を来た女の子。こんな深夜に女の子? 子どもが出歩いていい時間じゃない。危ないよ。いっぱい思うことはあったけど、一言も声にならなかった。ビビってたんだ。
女の子はすたすたとこっちに近づいてきた。わたしはまた慌てた。焦るでしょ。気持ちの準備がまったくできてなかった。
枕木5本分くらいまでわたしに近付いて、女の子はそこで初めて気づいたように足を止めた。
で、第一声、なにを言ったと思う?
「こんばんは」って。
かわいい声でさ。挨拶してきたんだよね。
途端に肩の力が抜けたよ。この状況で挨拶する? いやでも、まあ、挨拶する人はいいよね。尊敬する。最高だと思ったよ。
わたしもこんばんは、って返した。
彼女、ほかに会話するでもなく、それ以上なんにも言わずに、そのまま真っ直ぐ歩いてきて、私とすれ違って、で、足も止めずに去ってった。
慌てて振り返った。彼女は全く立ち止まらなかった。どんどん遠くなる背中は、最後まで一度も振り返らなかった。
彼女の黒っぽい制服が完全に闇に消えたとき、ようやくわたしは笑えてきた。深夜の線路上で生身の他人が出会ったのに、挨拶で終わったんだ。ふつうもっとなんかあるだろ! 全くなにごともなかったね。
その日はもうそれより先に行く気がなくなっちゃったから、帰った。結構早足で戻ったんだけど、彼女には追いつけなかった。線路上にもう姿は見あたらなかった。
幽霊だったかな? って思ったけどさ。生きている人だったよ。その日から何度か、線路上の邂逅をするようになったんだ。
彼女は、月の出る明るい夜にしか会えない女の子になった。
わたしはちょうど、多感な時期だった。家にも学校にも居場所がないと思って、飛び出しちゃうような青い時期だったんだ。そんなときに、そんな運命の出会いをした。
会う度に胸高鳴るとかさ、太陽の下でも彼女のこと考えちゃうとかさ。会って何を話そうか、何を話してくれるか。今日は少し長く会いたいな、何時くらいに家を出ればいいだろうか、とか、ずっと考えていた。
夜になれば会える。会えば、わたしから話題を振った。自分の身の回りのこと。中学のことや家族のこと、その日見たもの聞いたもの、したこと、されたこと。
そうしたら彼女は、同じように彼女の話をしてくれた。高校のこと、彼女の妹のこと。たかだか3つしか違わなかったけど、全然違う世界の話を聞いているようだった。彼女が話す彼女の世界は輝いていた。
雨が降った日は、彼女は線路に現れないから、とっても寂しい思いをして、明日晴れたら何話そうってことばかり考えていたよ。
寝てもさめても頭の中は彼女のことばかり。
そんな、初恋だったよ。
「熱烈な恋だな」
「そうだね」君は遠くをみるように、目を眇める。「もう、あれ以上の恋はできないと思う」
夢を見るような、ふわふわとした君の声。幼くて無邪気な笑顔。
僕は蚊帳の外であることを強烈に感じた。時間の蚊帳の外だ。薄い膜を隔てた先で、過去の君と女の子が夜道を歩いている。
「それで?」僕は強いて声を出した。
君を今に引き戻したかった。「その女の子とは、その後どうなったの? 君とそんなに親しかったひとが居たなんて知らなかったよ」
「そりゃそうだ。初めて君に話したもの」
君はふ、と笑った。目尻に皺が寄って、今の君のほほえみをかたどった。「彼女はもういない」
「そうなのか」
「うん。ほら、初恋は叶わないっていうでしょう? 例に漏れずわたしの恋も成就しなかった。今では甘酸っぱい思い出さ」
「今でも思い出したりするのかい? もう数十年前の話だろう」
「全然思い出すよ。思い出しているうちに、いたたまれなくなって、恥ずかしくて痛くて、思わず転がったりするもん」
「転がる」
「腹這いになって喚く」
「腹這いに? いや、恥ずかしさに喚くなら仰向けになるんじゃないか?」
「ううん、腹が下の方がいい。仰向けになると声が飛んで行っちゃうだろう? 恥ずかしさを撒き散らしちゃう」
「それは更に恥ずかしそうだ。なら、うずくまりたい?」
「声がこもって反響してくるのはつらいな。もっと恥ずかしくなりそうだよ。どうせなら、そうね、砂山に腹這いになって叫びたい。砂に吸収してほしい」
君は神妙な顔をして言った。僕は、君が砂まみれになりながらあの日の少女を想う姿を想像する。口の中がじゃりじゃりして、少女に集中できなさそうだった。
「初恋を悼みながら砂に顔をつっこむのか。すごい絵面だなあ」
「そんなすごい恋をしたんだよ」
君はにっこり笑った。
初恋が叶わないのは、こうして笑う為なのかもしれなかった。
「んで、君の初恋はどんなものだった?」
「僕も、ものがたりのような初恋だよ。でも、君のように熱烈なものとは違って、のんびりした初恋さ。初恋相手の初恋の話を聞くような、ね」
また初恋が終わらない僕に、いつか今日を思い出して誰かに笑いかける日が来るのだろうか。そんな日は来ないとよい、でも君みたいに笑えるのなら、来てもよい。